「知る」ことにまつわる不安と開きなおり

人間は知覚できるものと知覚できないものがある。おまけに、視覚が捉えていても記憶が無意識的に情報をフィルタリングしていたりするので、知覚している情報を全て認識しているわけですらない。

だから、自分が何かを「知った」と思ったときでも、それは「知覚できないもの」と「認識し損ねたもの」を除いて作られた認識でしかない。

そんなことを悟ると、何かを知ったと思ったとしても「知ったことにする」のをためらってしまう。原理的に、何かを見落としていることに間違いないからだ。

ただ現実を生きる我々としては、現代の技術を使ったとしても知覚し得ないようなことを心配したってしょうがないというのも事実で、「とりあえず今はそういうことにしておこう」といった程度の認識を蓄積しするしかない。

なんてことを考えていると悲観的な気分にもなりそうだけど、誰もが当たり前だと思っていることでも覆されたり別の解釈がなされる余地が常にあるというのは楽しみなことでもある。それに、ある認識が真実を捉えきったものでなくても、その知識が何かしら実生活で役に立つものであればそれは価値がある。ニュートン力学相対性理論でアップデートされても、対象によっては依然としてニュートン力学で十分だったりする。

真理の探求とは現実には「よりましな認識の探求」であって、ある認識(=理論、説明)が正しいとか間違っているということは言えず、他の認識の仕方と比較して「よりましである」とか、「より役に立つ」といった評価しかできない。

したがって、科学というのも「結局本当のところはよくわからないが、わりとうまく現実を説明できていそうだし、それでいいじゃん!」といったものであって、要は(広い意味で)役に立つかどうかが問われているのである。

科学というのも工学の一種であり、科学理論はアーティファクトである。


まあ、だから何だっちゅう話だけど。